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2009-06-25

甘糟右衛門記:

もう1つの愛:甘糟右衛門」

(最初からお読みくださる方は下の序章から読んでください)

[第6章」

1598年(慶長3年)上杉藩は、越後200万石の禄高を120万石に転封されて会津若松城に赴いたのであった。
家老、直江兼続は、その時30万石で米沢城城主となったのである。
そして最初にキリスト弾圧を命じた豊臣秀吉は、その年に生涯を閉じたのであった・・。

その後、一時、厳しさも和らいでいたキリスト教ではあったが、関ヶ原合戦のあと、徳川家康が次第に天下を治めつつに連れ、一段と弾圧も厳しくなってくるのでした。
上杉藩も東軍に味方したため、更に減封を余儀なくされて、1601年(慶長6年)とうとう120万石から30万石と4分の1までされて上杉景勝公が米沢に入部したのであった。

2代将軍秀忠公になってからは、桜田門石垣工事に加えて江戸城堀さらい工事など、藩財政を圧迫させる難工事も次々課せられてきました。

そんな状況の厳しい中にあって右エ門は藩主に同行して江戸に滞在中(1610~1613年、慶長15年~18年)にルイス・ソテロ神父から洗礼を授けられた。
零名は霊父にちなみルイス・とされたのでした。
         (今回は第5章と相前後している部分がありますので、ご了承願います)



「第5章」
慶長16年(1611年)5月の事とであった・・。
宣教師ソテロと、探検家ピスカイノは、東北、伊達政宗の居城を目指して旅をしていた・・。
ソテロは江戸滞在中に政宗の愛妾の病を救った恩恵もあったお陰で誘われ、キリスト教未開の土地である東北に足を踏み入れるのを楽しみにして旅だったのであった。
ピスカイノも,ひそかにジパング王国の金を見つけようと虎視眈眈として、日本語の流暢なソテロに同行したのであった。
彼等は、まさに会津若松から檜原湖峠を越え米沢に入ろうとしていた。

其の頃、右衛門の身辺では、時ならぬ事態が起こっていた。
右衛門の父備後の守影継が、切腹させられ6600石の甘粕家が、お家断絶という悲運の憂き目にあったいた。
それに追い打ちをかけるかの様に、右衛門の妻が若くして急死したのであったー。
幼子を残された右衛門には、悲嘆に暮れる毎日であった。


右衛門は、上杉景勝公と、その子である定勝公の御側用人として、2代に渡り務めを果たしておりました。
その位は、3百石扶持という中級の上に位置する格付けを頂いておりました。
右衛門の仕事振りは、真面目で実直、上司からは絶大な信頼を受けていた正直者でありました。
目下、放送中の「天・地・人」では上杉藩は二百万石という全国有数の大名であったが、これからの放送の過程で、会津若松に移られてから百二十万石になり、更に米沢に移封された時には三十万石という風に減封されてきました。
ですから、家臣ともども6000人もの人々ともに米沢にやってきた当時の藩財政は究極の貧乏生活を強いられる結果と、相成った次第でありました。
さらに、のしかかるように,1601年(慶長11年)には、将軍秀忠からの江戸桜田門内の石垣工事を命じられて出費も大きく上回り藩の財政は益々圧迫されていくのでした。

当時の家臣の生活状況は、お城の近くには、上、中級武士が佇まい、下級武士の多くは郊外の原野で農地を開拓して農作物を作りながら生活をしていました。

江戸時代に確立した「士・農・工・商」の武家制度は、当時にの米沢藩においては、全く通用すること無く、武士も農民も同じように耕し暮らしをしていたのでした。キリスト教の教えの1つである上下関係を越えた人間関係の平等と信頼の根強さが、米沢にキリスト教が布教する原点にもなっているのかとおもます。
                       (資料:米沢の殉教者とその余影:述沢恒夫著参照)
「第4章」

平成21年5月16日の事です。
米沢キリシタン53名の殉教者の慰霊祭(列福記念ミサと言いカトリック信仰で信者の尊敬を集め、模範となる認められた故人に、ローマ法王が聖人、福者の位を授ける式典)が、北山原で行われました。

全国各地から、カトリック信者800余名が参列なされ敬謙なミサと供に、甘糟右衛門始め、殉死された信者の霊を慰めました。

400年近くも前の人が、そして歴史上の人物では登場しない方達のミサが今日、こんなにも盛大執り行われるのは何故でしょうか?

ここに、この地を探してこの世に知らしめた1個人の涙ぐましい努力と、当時、土地の提供、資金カンパに協力した町民の方達の協力が、あったからこそ現在のようなセレモニーも開けたのではないかと思います。

その人とは、1927年(昭和2年)鶴岡から米沢に赴任したドイツのヨゼフ・シェンテック神父でした。
殉教して300年余りの昭和初期は、原野となっていた、山林の中を歩きまわり、漸くにして、ここの殉教地、北山原に辿りついたのでした。

昭和4年の事です。神父は「米沢の殉教者」という本を編集し発行しました。
それを読んで感動した母国ドイツの信者の間で、キリスト像,聖母マリア像、使徒ヨハネ像を送る事を決定したのでした。

さて、今度は,像を建てる荒地の整備です。
当時の木挽町の有志にによる資金集めが始まり、それと同時に若者らによる労力奉仕もありました。
カルワリオ山を想定して、高畠町から大きな岩石を荷車で運び、土盛りをして公園に整備して、小川の傍には桜も植え付けられました。
米沢の人々は、異国の宗教にもこだわらず、汗水流しながらの奉仕作業に没頭しました。

こうして信者以外の町民の協力の甲斐もあって、昭和4年4月30日に殉教300年祭を執り行ったのでした。

しかしながら、このキリスト像は、野外に取り付けた為、風紀上での問題点がありと、判断されて、この慰霊祭の数日後には、取り外されてしまいました。
再度取り付けられたのは3年後の昭和7年でした。
当時の内大臣、赤十字総裁であった徳川家達(いえさと)が県内視察をするというので、急遽とりつけられ現在に至っています。

保管中は、ある有志の仏壇の傍に寝かせてあったそうですが、近所の方達は線香をあげながら、「もごさいな~~(可哀そうの意味)」と言いながらお参りしていったそうです。

このように、米沢人の気質は、心の中では、いつも「愛」「義」の精神が宿っていたのではないでしょうか~。
                                           (資料:米沢の殉教者とその余影 延沢恒夫氏参考)
「第3章」
       
小生の今書いている、この文章は、今の所、小説にはあたりません。
資料をもとに紹介しているだけです。

現在のように、ビデオやCDで記録を保存しておれば、歴史は忠実ともなるでしょうが、百年以上前の事の史実は全て文献のみとなります。

ですから、著書本人の記録が史実としてに残り、歴史家は手紙などで証拠を確立していくのだと思います。
400年に遡る、この右衛門を調べるに当たっても、彼は、自分では殉教という最善の方法で人生の幕を閉じましたが、甘糟家1族にとっては,当時は末代の恥と思い、家系から彼の出生、生い立ちの記録を末梢してしまいました。

白石城主失態の責任をとり甘糟影景継の切腹後、13年の間、お家断絶となったのですが、その後甘糟家は再興されて、家系は明治以降も続きます。

明治になり12代甘糟継成は、勝海舟、大久保利通、板垣退助とも精通しており、官僚も嘱望されていたのでしたが、惜しくも38才で急逝しました。

                                   (1999年米沢の殉教者とその余影)延沢恒夫氏筆では現在も宮城県大川原市在中とあります)

カトリックとプロテスタントとは?

右衛門が入信しましたのは、前述のスペインの宣教師、ソテロによって受けられました。
少し話はそれますが、ここで宗教戦争を少し勉強しましょうか・・。

そもそもはキリスト教は、イエス・キリストの教えの元、12人の弟子によって長い年月を経て、聖書と言う1冊の経典にまとめられました。

その後、その教えは全ての民族、一般大衆にも行き渡り、仏教、イスラム教とともに世界三大教典として発展してゆくのでした。

所が15世紀に、1部のカトリック教聖者指導層の堕落により、マルチンルターを先駆者とする宗教革命が起きたのです。

そうして新しく立ち上がったのがプロテスタントという教会でした。

それ以降、旧教、新教を信仰する国が、別れて宗教戦争がたびたび勃発するようになりました。

イギリス、オランダ、北欧諸国が、プロテスタント支持に回りました。

フランス、オーストリア、スペイン、イタリア、ポーランド等の国がカトリック支持国でした。

話は、元に戻りますが、右衛門が洗礼を受け入信したのは、カトリック教です。

織田信長時代にはスペインのバテレンが入国しカトリック教を普及したのです。

それが豊臣秀吉の弾圧令から、徳川家康、家光の禁止令になるのですが、ただ1国、貿易を許されたオランダは、欧州では衰退のスペインにとって変わって、幕府との交易の利権を1人占めとし、カトリック教も完全に途絶えたのでした。

今、米沢市には、カトリック系教会は、大町4丁目の「米沢カトリック教会」を始め、2,3か所と聞いております。

小生は、信者ではございませんので、信仰そのものについて、お話する資格はありませんが、信仰を越えての、甘糟右衛門を少しづつ解き明かしていきたいと思っております。


「第2章」

私は、今回このテーマで取り上げた理由は、やはりNHKの「天地人」放映が影響しています。
序章で述べましたが、戦場に「愛」の兜は何となく不釣り合いです。

論説は色々ありますが、独自に解釈しますと、根底には藩祖上杉謙信公の信念となす「愛と義」があったのかと、推察する次第です。 

私欲の為に領土を侵さず、頼まれれば、それも良しとし、我為の戦さにあらずして、民、百姓を思い遣る。
彼は毘沙門天の悟りを得、出家しますが、その心意気は、キリストの教えにも通うものがあると、思えてならないのです。

歴史は事実なりですが、少しずつフイクションも交えた構成で書いていきたいと思います。

さて右衛門が洗礼を受ける動機ですが、まだそんなに読んではいませんが、今読んでいる文献の中では、詳しい事実が書かれていません。

ただ彼が、若い時分に妻には死に別れたという事実はあります。

洗礼を受ける際には、今でも2つの事例があると思います。

1つは、家庭がクリスチャンで、小さい時から、洗礼を受けている事。
そして2つめは、人生の岐路にたった時に悩み、苦悩の場を救いの神に求め、洗礼を受け神との福音を生活の糧として生き喜びを得ようとする信者です。

右衛門は、妻の死、悲しみのどん底の中に、心のよりどころを求めていたのではないでしょうか?

それに加えて父甘糟影景継が、白石城主をしている際に、留守中に伊達政宗に城を奪われてしまい、その責任を問われて切腹となりました。

そして、その間の13年間は身分、家禄、屋敷を没収される改易に合ったのでした。

慶長15年(1610年)。江戸、京阪を往還している宣教師の影響で、キリストの教えが、庶民に好感をもって迎えられもはや全盛期を迎えていました。

しかし、そのころは未だ東北地方には宣教師は、まだ足を踏み入れていない未開の土地だったのです。
けれども、バテレン大名は数多く存在し、その基盤固めは、すでに行われていたようです。

浦生氏郷[会津城主)・ジョアン源左衛門(白石城主)など1590年台には洗礼を受けていたようです。・

ルイス・ソテロという宣教師が右衛門に洗礼を授けたといいます。

彼は、江戸にて伊達政宗と接見し、政宗の愛妾が大病を患った時に、西洋医学を持って回復への道へと導き、大変信頼を受けていました。

その恩恵に授かり、ソテロは政宗公に仙台へ来ないかと誘われるのでした。

彼は慶長16年5月に仙台を目指して、江戸を出発、宇都宮~会津・米沢を経て5か月の旅をして仙台に辿りつきました。

旅の途中、途中で、民衆の悩みを聞き、愛の教えを説きながら信者を増やしていったのでしたー。
そんな、折も折に米沢に立ち寄った、ソテロと右衛門の運命的な出会いがあったのです~~~。

「序章」

わが米沢市は今「天・地・人」放映中で、観光客が沢山訪れています。                
主人公は勿論「直江兼続公」です。




初代上杉藩城主景勝公を君主として,義と愛の精神を掲げ、わが米沢城が最後の赴任では,君主を支えて治山治水の国を立派に作りました。
(文献により藩祖上杉謙信を米沢藩初代藩主と唱える氏と景勝公が初代とされる氏がおられます。)

また、その影に当時仕えた家臣に、甘糟右衛門という侍がおりました。

その人は熱心なキリスト教信者で、のちにキリスト教廃止令の弾圧にあい処刑されますが、彼の生き様も、君主景勝公の「愛」に支えらて十字架にかけられるまでは、米沢藩内の特別な計らいを持って、処遇されておりました。

甘糟 景継(あまかす かげつぐ、天文19年(1550年) - 慶長16年5月12日(1611年6月22日))は、大河ドラマ「天地人」でパパイヤ鈴木が演じていますが、甘糟右衛門は彼の次男になります。
しかし、甘糟家は1度お家断絶になっており、右衛門の生い立ちは分からず、米沢藩家臣の頃から文献でしか知り得ません・・。

藩祖上杉謙信公は「愛と義」の精神を掲げ戦国の世を駆け巡り、景勝公ががその精神を受け継ぎした。

キリスト教は「信・望・愛」を生活信条として,戦国の時代から徳川幕府にかけて隆盛を極めました。

「愛」という言葉が,戦国時代に、ふさわしくない言葉をさぐりながら,右衛門を追いかけて見たいと思います。

キリスト教が日本に伝わったのは1549年フランシスコ・ザビエルによってでありました。

では、どうして仏教国、日本で戦国時代に、あのようにキリスト教の信者が増えたのでしょうか?

もともとは、西洋様式を、おおいに取り入れていた織田信長の手厚い保護政策のもとにあったからといいます。


彼の影響で、キリシタン大名なる諸国もついに現われ、天正時代は信徒が30万人もおり、宣教師も続々来日し3百人余りが布教活動しました。                                              

甘糟右衛門を語るには、もう少しキリスト教について知る必要が、あろうかと思います。

前述の通り、戦乱の世を統一しようと織田信長は、仏教勢力の著しい進出へのけん制を込めて、数多くの伝道師を招いたのでした。

そして、京都には南蛮寺と称して四条坊町や安土にキリスト寺院も建てられる事となったのです。
宣教師達は「愛」とキリスト教の教えを信ずれば万民が幸せの御国へ導かれるというお言葉により布教を始めました。

当時戦乱に明け暮れた民、百姓達には、いかほどの心のよりどころとなったかも知れませんでした。
献身的な彼らの布教には、病人には手厚く看病を施し、悩める者には真摯に受け止め共に語り悩みを聞きながら信徒を拡大していきました。

そして天正15年(1587年)豊臣秀吉の禁教令が発令なるまでの間、各藩にはキリシタン大名小西行長、黒田長政、細川忠興らも誕生するのでした・・。

慶長3年(1598)に秀吉が没した後は、キリスト教は息を吹き返し、各会派が伝導を競いあうまでになったのでした。
そして慶長5年の「関ヶ原の戦い」で徳川家康が天下をとりましたが、慶長15年には我が国のキリスト教は全盛を極めていくのでした。
駿府や江戸を拠点として宣教師は布教活動を始め、その頃の信者の数は全国でも数十万人に膨れ上がってきました。

当時、海外では、腐敗、堕落の一途を辿っていたと言われる、カトリックに替わり、プロテスタントの支配力が、影響を及ぼしてきたのでした。

そこで危機感を感じて、イエズス会なる教団が誕生し、宗教改革で失墜したカトリックの回復を目指しての海外布教が始まったのでありました。
あらゆる苦難を、ものともしない宣教師達は、インド、中国、日本へとやってきました。

当時のヨーロッパ(1600年代)では、新教と旧教が対立していました。
しかし無敵艦隊スペインが、イギリスとの海戦でその力を失ったのです。力を失ったスペインに代わり新教国オランダが、
日本への進出を図りました。
また宣教師だけが来日したわけでもなく、冒険家も来日し、東北の金山探しにも足を運んだと云われております。

後日、オランダは対日貿易の独占を担うべく徳川幕府への取り入れに奔走したのでした~。

その結果が、ザビエル等が布教に努めた旧教宣教師の存在を否定せざるを得なくなり、鎖国への道と走って行った日本が甘糟右衛門ら信者は、迫害への道と、追いやられていくのでした・・・。

甘糟右衛門は、上杉景勝公、定勝公の御側用人として300石扶ち持(中級の上の位)を頂き、沢山の重大なお役目を授かり、藩主には大変信頼のある家来でした。
右衛門は藩主とともに、江戸滞在中、ルイス・ソテロ神父から洗礼を受けたのでした。
霊名はルイス。ここにルイス右衛門が誕生する事となり、のちには出羽最大の教会を支えるまでになっていったのでした。


当時の米沢でキリスト教が、どうしてキリスト教を寛大に受け入れられたのでしょうか?

それには少しさかのぼり、お話します。

南北朝時代の1380年(天授6年)伊達藩「胸遠」が置賜を攻めます。
大江八代広房を滅ぼして高畠城を築城しました。
15代晴宗の(1545年・天文17年)米沢城を築城しました。
18代独眼竜政宗は(1567年永禄10年)米沢にて生まれました。

そして伊達藩は、豊臣秀吉の命により、1591年(天正19年)岩出山(宮城県)に転封させられるまで22年間米沢城を居城としていたのでした。
同年に、伊勢松坂城主浦生氏郷が会津若松城主となり、米沢は会津領として統治下になり、浦生郷安が(3万8千石)が米沢の領主となったのですが、氏郷、郷安ともに、キリシタン大名だったのです。
ですから、この頃から、米沢には布教の元となる種が撒かれたのではないか、と思われます。

上杉景勝公は、1598年(慶長3年)豊臣秀吉の命により、越後から会津若松城へ転封させられますが、禄高も200万石から120万石に減封されました。
そして、秀吉は百姓を除いて六千人という家臣をすべて召し連れていくことを命じたのでした。

同年3月に景勝公が、若松城の城主となり、その時、米沢城30万石の城主となったのが、直江兼続公でありました。

奇しくも、その年の8月に豊臣秀吉はこの世を去り暗雲の天下分け目の戦い、関ヶ原合戦へと突き進んで行くことと相成ったのでした・・。
資料は「市立米沢図書館、置賜文化」農文協「人作り風土記」「米沢の殉教者とその余禄」「米沢の殉教者」をもとにインターネトサイトでも検索しております
  


 

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2009-06-23

いつの間にか・・・。

文字色ロープウエイ
大きい文字
春先に首筋が痛くて我慢できなくて、医者に行った。
分瑠という血液が凝り固まったものと診断されたー。
しばらくは苦しかったが、今は忘れたかのように痛みはとれた!
自然快癒というのだろうか!
無理しないでいると回復するものだな~~^・^
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