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2009-04-27

甘糟右衛門入信のきっかけは・・・?

北山原
   時代小説「もう1つの愛:甘糟右衛門」

(最初からお読みくださる方は下の序章から読んでください)

「第2章」

私は、今回このテーマで取り上げた理由は、やはりNHKの「天地人」放映が影響しています。
序章で述べましたが、戦場に「愛」の兜は何となく不釣り合いです。
論説は色々ありますが、独自に解釈しますと、根底には藩祖上杉謙信公の信念となす「愛と義」があったのかと、推察する次第です。 
私欲の為に領土を侵さず、頼まれれば、それも良しとし、我為の戦さにあらずして、民、百姓を思い遣る。
彼は毘沙門天の悟りを得、出家しますが、その心意気は、キリストの教えにも通うものがあると、思えてならないのです。
歴英は事実なりですが、少しずつフイクションも交えた構成で書いていきたいと思います。

さて右衛門が洗礼を受ける動機ですが、まだそんなに読んではいませんが、今読んでいる文献には、詳しい事実が書かれていません。
ただ彼が、若い時分に妻には死に別れたという事実はあります。
そこで、洗礼を受ける際には、今でも2つの事例があると思います。
1つは、親がクリスチャンで、小さい時から、洗礼を受けている事。
そして2つめは、人生の岐路にたった時に悩み、苦悩の場を救いの神に求め、洗礼を受け神との福音を生活の糧として生き喜びを得ようとする信者です。
右衛門は、妻の死、悲しみのどん底の中に心のよりどころを求めていたのではないでしょうか?
それに加えて父、甘糟影景継、白石城主をしている際に、留守中に伊達政宗に城を奪われてしまい、その責任を問われて切腹となりました。
そして、その間の13年間は身分、家禄、屋敷を没収される改易に合ったのでした。

慶長15年(1610年)です。江戸、京阪を往還している宣教師の影響で、キリストの教えが、庶民に好感をもって迎えられ
もはや全盛期を迎えたいたのでした。
しかし、そのころは未だ東北地方には宣教師は、まだ足を踏み入れていない未開の土地だったのです。
けれども、バテレン大名は数多く存在し、その基盤固めはすでに行われていたようです。
浦生氏郷[会津城主)・ジョアン源左衛門(白石城主)など1590年台には洗礼を受けていたようです。・

ルイス・ソテロという宣教師が右衛門に洗礼を授けたといいます。
彼は、江戸にて伊達政宗と接見し、政宗の愛妾が大病を患った時に、西洋医学を持って回復への道へと導き、大変信頼を受けていました。
彼は慶長16年5月にに仙台を目指して、江戸を出発して、宇都宮~会津・米沢を経て5か月の旅をして仙台に辿りつきました。
旅の途中、途中で、民衆の悩みを聞き、愛の教えを説きながら信者を増やしていったのでしたー。
そんな、折も折に米沢に立ち寄った、ソテロと右衛門の運命的な出会いがあったのです~~~。

「序章」

わが米沢市は今「天・地・人」放映中で、観光客が沢山訪れています。                
主人公は勿論「直江兼続公」です。

初代上杉藩城主景勝公を君主として,義と愛の精神を掲げ、わが米沢城が最後の赴任では,君主を支えて治山治水の国を立派に作りました。
(文献により藩祖上杉謙信を米沢藩初代藩主と唱える氏と景勝公が初代とされる氏がおられます。)

また、その影に当時仕えた家臣に、甘糟右衛門という侍がおりました。

その人は熱心なキリスト教信者で、のちにキリスト教廃止令の弾圧にあい処刑されますが、彼の生き様も、君主景勝公の「愛」に支えらて十字架にかけられるまでは、米沢藩内の特別な計らいを持って、処遇されておりました。

甘糟 景継(あまかす かげつぐ、天文19年(1550年) - 慶長16年5月12日(1611年6月22日))は、大河ドラマ「天地人」でパパイヤ鈴木が演じていますが、甘糟右衛門は彼の次男になります。
しかし、甘糟家は1度お家断絶になっており、右衛門の生い立ちは分からず、米沢藩家臣の頃から文献でしか知り得ません・・。

藩祖上杉謙信公は「愛と義」の精神を掲げ戦国の世を駆け巡り、景勝公ががその精神を受け継ぎした。

キリスト教は「信・望・愛」を生活信条として,戦国の時代から徳川幕府にかけて隆盛を極めました。

「愛」という言葉が,戦国時代に、ふさわしくない言葉をさぐりながら,右衛門を追いかけて見たいと思います。

キリスト教が日本に伝わったのは1549年フランシスコ・ザビエルによってでありました。

では、どうして仏教国、日本で戦国時代に、あのようにキリスト教の信者が増えたのでしょうか?

もともとは、西洋様式を、おおいに取り入れていた織田信長の手厚い保護政策のもとにあったからといいます。


彼の影響で、キリシタン大名なる諸国もついに現われ、天正時代は信徒が30万人もおり、宣教師も続々来日し3百人余りが布教活動しました。                                              

甘糟右衛門を語るには、もう少しキリスト教について知る必要が、あろうかと思います。

前述の通り、戦乱の世を統一しようと織田信長は、仏教勢力の著しい進出へのけん制を込めて、数多くの伝道師を招いたのでした。

そして、京都には南蛮寺と称して四条坊町や安土にキリスト寺院も建てられる事となったのです。
宣教師達は「愛」とキリスト教の教えを信ずれば万民が幸せの御国へ導かれるというお言葉により布教を始めました。

当時戦乱に明け暮れた民、百姓達には、いかほどの心のよりどころとなったかも知れませんでした。
献身的な彼らの布教には、病人には手厚く看病を施し、悩める者には真摯に受け止め共に語り悩みを聞きながら信徒を拡大していきました。

そして天正15年(1587年)豊臣秀吉の禁教令が発令なるまでの間、各藩にはキリシタン大名小西行長、黒田長政、細川忠興らも誕生するのでした・・。

慶長3年(1598)に秀吉が没した後は、キリスト教は息を吹き返し、各会派が伝導を競いあうまでになったのでした。
そして慶長5年の「関ヶ原の戦い」で徳川家康が天下をとりましたが、慶長15年には我が国のキリスト教は全盛を極めていくのでした。
駿府や江戸を拠点として宣教師は布教活動を始め、その頃の信者の数は全国でも数十万人に膨れ上がってきました。

当時、海外では、腐敗、堕落の一途を辿っていたと言われる、カトリックに替わり、プロテスタントの支配力が、影響を及ぼしてきたのでした。

そこで危機感を感じて、イエズス会なる教団が誕生し、宗教改革で失墜したカトリックの回復を目指しての海外布教が始まったのでありました。
あらゆる苦難を、ものともしない宣教師達は、インド、中国、日本へとやってきました。

当時のヨーロッパ(1600年代)では、新教と旧教が対立していました。
しかし無敵艦隊スペインが、イギリスとの海戦でその力を失ったのです。力を失ったスペインに代わり新教国オランダが、
日本への進出を図りました。
また宣教師だけが来日したわけでもなく、冒険家も来日し、東北の金山探しにも足を運んだと云われております。

後日、オランダは対日貿易の独占を担うべく徳川幕府への取り入れに奔走したのでした~。

その結果が、ザビエル等が布教に努めた旧教宣教師の存在を否定せざるを得なくなり、鎖国への道と走って行った日本が甘糟右衛門ら信者は、迫害への道と、追いやられていくのでした・・・。

甘糟右衛門は、上杉景勝公、定勝公の御側用人として300石扶ち持(中級の上の位)を頂き、沢山の重大なお役目を授かり、藩主には大変信頼のある家来でした。
右衛門は藩主とともに、江戸滞在中、ルイス・ソテロ神父から洗礼を受けたのでした。
霊名はルイス。ここにルイス右衛門が誕生する事となり、のちには出羽最大の教会を支えるまでになっていったのでした。


当時の米沢でキリスト教が、どうしてキリスト教を寛大に受け入れられたのでしょうか?

それには少しさかのぼり、お話します。

南北朝時代の1380年(天授6年)伊達藩「胸遠」が置賜を攻めます。
大江八代広房を滅ぼして高畠城を築城しました。
15代晴宗の(1545年・天文17年)米沢城を築城しました。
18代独眼竜政宗は(1567年永禄10年)米沢にて生まれました。

そして伊達藩は、豊臣秀吉の命により、1591年(天正19年)岩出山(宮城県)に転封させられるまで22年間米沢城を居城としていたのでした。
同年に、伊勢松坂城主浦生氏郷が会津若松城主となり、米沢は会津領として統治下になり、浦生郷安が(3万8千石)が米沢の領主となったのですが、氏郷、郷安ともに、キリシタン大名だったのです。
ですから、この頃から、米沢には布教の元となる種が撒かれたのではないか、と思われます。

上杉景勝公は、1598年(慶長3年)豊臣秀吉の命により、越後から会津若松城へ転封させられますが、禄高も200万石から120万石に減封されました。
そして、秀吉は百姓を除いて六千人という家臣をすべて召し連れていくことを命じたのでした。

同年3月に景勝公が、若松城の城主となり、その時、米沢城30万石の城主となったのが、直江兼続公でありました。

奇しくも、その年の8月に豊臣秀吉はこの世を去り暗雲の天下分け目の戦い、関ヶ原合戦へと突き進んで行くことと相成ったのでした・・。
資料は「市立米沢図書館、置賜文化」農文協「人作り風土記」「米沢の殉教者とその余禄」「米沢の殉教者」をもとにインターネトサイトでも検索しております

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2009-04-25

甘糟右衛門記ー直江兼続に辿りつくまで

時代小説「もう1つの愛:甘糟右衛門」
「序章」

わが米沢市は今「天・地・人」放映中で、観光客が沢山訪れています。                
主人公は勿論「直江兼続公」です。

初代上杉藩城主景勝公を君主として,義と愛の精神を掲げ、わが米沢城が最後の赴任では,君主を支えて治山治水の国を立派に作りました。
(文献により藩祖上杉謙信を米沢藩初代藩主と唱える氏と景勝公が初代とされる氏がおられます。)

また、その影に当時仕えた家臣に、甘糟右衛門という侍がおりました。

その人は熱心なキリスト教信者で、のちにキリスト教廃止令の弾圧にあい処刑されますが、彼の生き様も、君主景勝公の「愛」に支えらて十字架にかけられるまでは、米沢藩内の特別な計らいを持って、処遇されておりました。

甘糟 景継(あまかす かげつぐ、天文19年(1550年) - 慶長16年5月12日(1611年6月22日))は、大河ドラマ「天地人」でパパイヤ鈴木が演じていますが、甘糟右衛門は彼の次男になります。
しかし、甘糟家は1度お家断絶になっており、右衛門の生い立ちは分からず、米沢藩家臣の頃から文献でしか知り得ません・・。

藩祖上杉謙信公は「愛と義」の精神を掲げ戦国の世を駆け巡り、景勝公ががその精神を受け継ぎした。

キリスト教は「信・望・愛」を生活信条として,戦国の時代から徳川幕府にかけて隆盛を極めました。

「愛」という言葉が,戦国時代に、ふさわしくない言葉をさぐりながら,右衛門を追いかけて見たいと思います。

キリスト教が日本に伝わったのは1549年フランシスコ・ザビエルによってでありました。

では、どうして仏教国、日本で戦国時代に、あのようにキリスト教の信者が増えたのでしょうか?

もともとは、西洋様式を、おおいに取り入れていた織田信長の手厚い保護政策のもとにあったからといいます。


彼の影響で、キリシタン大名なる諸国もついに現われ、天正時代は信徒が30万人もおり、宣教師も続々来日し3百人余りが布教活動しました。                                              

甘糟右衛門を語るには、もう少しキリスト教について知る必要が、あろうかと思います。

前述の通り、戦乱の世を統一しようと織田信長は、仏教勢力の著しい進出へのけん制を込めて、数多くの伝道師を招いたのでした。

そして、京都には南蛮寺と称して四条坊町や安土にキリスト寺院も建てられる事となったのです。
宣教師達は「愛」とキリスト教の教えを信ずれば万民が幸せの御国へ導かれるというお言葉により布教を始めました。

当時戦乱に明け暮れた民、百姓達には、いかほどの心のよりどころとなったかも知れませんでした。
献身的な彼らの布教には、病人には手厚く看病を施し、悩める者には真摯に受け止め共に語り悩みを聞きながら信徒を拡大していきました。

そして天正15年(1587年)豊臣秀吉の禁教令が発令なるまでの間、各藩にはキリシタン大名小西行長、黒田長政、細川忠興らも誕生するのでした・・。

慶長3年(1598)に秀吉が没した後は、キリスト教は息を吹き返し、各会派が伝導を競いあうまでになったのでした。
そして慶長5年の「関ヶ原の戦い」で徳川家康が天下をとりましたが、慶長15年には我が国のキリスト教は全盛を極めていくのでした。
駿府や江戸を拠点として宣教師は布教活動を始め、その頃の信者の数は全国でも数十万人に膨れ上がってきました。

当時、海外では、腐敗、堕落の一途を辿っていたと言われる、カトリックに替わり、プロテスタントの支配力が、影響を及ぼしてきたのでした。

そこで危機感を感じて、イエズス会なる教団が誕生し、宗教改革で失墜したカトリックの回復を目指しての海外布教が始まったのでありました。
あらゆる苦難を、ものともしない宣教師達は、インド、中国、日本へとやってきました。

当時のヨーロッパ(1600年代)では、新教と旧教が対立していました。
しかし無敵艦隊スペインが、イギリスとの海戦でその力を失ったのです。力を失ったスペインに代わり新教国オランダが、
日本への進出を図りました。
また宣教師だけが来日したわけでもなく、冒険家も来日し、東北の金山探しにも足を運んだと云われております。

後日、オランダは対日貿易の独占を担うべく徳川幕府への取り入れに奔走したのでした~。

その結果が、ザビエル等が布教に努めた旧教宣教師の存在を否定せざるを得なくなり、鎖国への道と走って行った日本が甘糟右衛門ら信者は、迫害への道と、追いやられていくのでした・・・。

甘糟右衛門は、上杉景勝公、定勝公の御側用人として300石扶ち持(中級の上の位)を頂き、沢山の重大なお役目を授かり、藩主には大変信頼のある家来でした。
右衛門は藩主とともに、江戸滞在中、ルイス・ソテロ神父から洗礼を受けたのでした。
霊名はルイス。ここにルイス右衛門が誕生する事となり、のちには出羽最大の教会を支えるまでになっていったのでした。


当時の米沢でキリスト教が、どうしてキリスト教を寛大に受け入れられたのでしょうか?

それには少しさかのぼり、お話します。

南北朝時代の1380年(天授6年)伊達藩「胸遠」が置賜を攻めます。
大江八代広房を滅ぼして高畠城を築城しました。
15代晴宗の(1545年・天文17年)米沢城を築城しました。
18代独眼竜政宗は(1567年永禄10年)米沢にて生まれました。

そして伊達藩は、豊臣秀吉の命により、1591年(天正19年)岩出山(宮城県)に転封させられるまで22年間米沢城を居城としていたのでした。
同年に、伊勢松坂城主浦生氏郷が会津若松城主となり、米沢は会津領として統治下になり、浦生郷安が(3万8千石)が米沢の領主となったのですが、氏郷、郷安ともに、キリシタン大名だったのです。
ですから、この頃から、米沢には布教の元となる種が撒かれたのではないか、と思われます。

上杉景勝公は、1598年(慶長3年)豊臣秀吉の命により、越後から会津若松城へ転封させられますが、禄高も200万石から120万石に減封されました。
そして、秀吉は百姓を除いて六千人という家臣をすべて召し連れていくことを命じたのでした。

同年3月に景勝公が、若松城の城主となり、その時、米沢城30万石の城主となったのが、直江兼続公でありました。

奇しくも、その年の8月に豊臣秀吉はこの世を去り暗雲の天下分け目の戦い、関ヶ原合戦へと突き進んで行くことと相成ったのでした・・。
資料は「市立米沢図書館、置賜文化」農文協「人作り風土記」「米沢の殉教者とその余禄」「米沢の殉教者」をもとにインターネトサイトでも検索しております

2009-04-17

甘糟右ェ門を知るー。

兜
  時代小説「もう1つの愛:甘糟右衛門」

わが米沢市は今「天・地・人」放映中で、観光客が沢山訪れています。                
主人公は勿論「直江兼続公」です。

初代上杉藩城主景勝公を君主として,義と愛の精神を掲げ、わが米沢城が最後の赴任では,君主を支えて治山治水の国を立派に作りました

また、その影に当時仕えた、甘糟右衛門という家臣がおりました。

その人は熱心なキリスト教信者で、のちにキリスト教廃止令の弾圧にあい処刑されますが、彼の生き様も、君主景勝公の「愛」に支えらて十字架にかけられるまでは、特別の計らいを持って処しておりました。

隠れた愛のそんな模様を少しシリーズで追ってみたいと思います。

甘糟 景継(あまかす かげつぐ、天文19年(1550年) - 慶長16年5月12日(1611年6月22日))は、大河ドラマ「天地人」でパパイヤ鈴木が演じており、こちらの主人公右衛門は次男になります。


キリスト教が日本に伝わったのは1549年フランシスコ・ザビエルによってでありました。

では、どうして仏教国、日本で戦国時代に、あのようにキリスト教の信者が増えたのでしょうか?

もともとは、西洋様式に恋いこがれていた織田信長の手厚い保護政策のもとにあったからといいます。

彼の影響で、キリシタン大名なる諸国もついに現われ、天正時代は信徒が30万人もおり、宣教師も続々来日し3百人余りが布教活動しました。                                              


甘糟右衛門を語るには、もう少しキリスト教について知る必要が、あろうかと思います。

前述の通り、戦乱の世を統一しようと織田信長は、仏教勢力の著しい進出へのけん制を込めて、数多くの伝道師を招いたのでした。

そして、京都には南蛮寺と称して四条坊町や安土にキリスト寺院も建てられる事となったのです。
宣教師達は「愛」とキリスト教の教えを信ずれば万民が幸せの御国へ導かれるというお言葉により布教を始めました。

当時戦乱に明け暮れた民、百姓達には、いかほどの心のよりどころとなったかも知れませんでした。
献身的な彼らの布教には、病人には手厚く看病を施し、悩める者には真摯に受け止め共に語り悩みを聞きながら信徒を拡大していきました。

そして天正15年(1587年)豊臣秀吉の禁教令が発令なるまでの間、各藩にはキリシタン大名小西行長、黒田長政、細川忠興らも誕生するのでした・・。

慶長3年(1598)に秀吉が没した後は、キリスト教は息を吹き返し、各会派が伝導を競いあうまでになったのでした。
そして慶長5年の「関ヶ原の戦い」で徳川家康が天下をとりましたが、慶長15年には我が国のキリスト教は全盛を極めていくのでした。
駿府や江戸を拠点として宣教師は布教活動を始め、その頃の信者の数は全国でも数十万人に膨れ上がってきました。

慶長19年(1614年)在日宣教師追放の時でした。
出国しないで、日本に残り潜伏していた宣教師が40数名、再渡航した数も30数名おりました。

当時、海外では、腐敗、堕落の一途を辿っていたと言われる、カトリックに替わり、プロテスタントの支配力が、影響を及ぼしてきたのでした。

そこで危機感を感じて、イエズス会なる教団が誕生し、宗教改革で失墜したカトリックの回復を目指しての海外布教が始まったのでありました。
あらゆる苦難を、ものともしない宣教師は、インド、中国、日本へとやってきました。



資料は(市立米沢図書館、置賜文化)農文協「人作り風土記」をもとにインターネトサイトでも検索しております・
NHK大河ドラマ天地人から=キリストの銅像が映っていますね。


 

2009-04-03

もう1つの愛(3)

甘糟右衛門を語るには、もう少しキリスト教について必要があろうかと思います。
前述の通り、戦乱の世を統一しようと織田信長は、仏教勢力の著しい進出へのけん制を込めて、数多くの伝道師を招いたのでした。
そして、京都には南蛮寺と称して四条坊町や安土にキリスト寺院も建てられる事となったのです。
宣教師達は「愛」とキリスト教の教えを信ずれば万民が幸せの御国へ導かれるというお言葉により布教を始めました。
当時戦乱に明け暮れた民、百姓達には、いかほどの心のよりどころとなった知れませんでした。
献身的な彼らの布教には、病人には手厚く看病を施し、悩める言葉を真摯に受け止め共に語り悩みを聞きながら信徒を拡大していきました。
そいsて天正15年(1587年)豊臣秀吉の禁教令が発令なるまでの間、各藩にはキリシタン大名小西行長、黒田長政、細川忠興らも誕生するのでした・・。
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